歴史

坂井宏行
生まれて初めてのフランス旅行で、僕は「ラ・ロシェル」という町の美しさに魅せられた。
その町は、イギリスに近い大西洋に面した港町で、静かな入江にはヨットがたくさん繋留されていた。入江を囲むようにして昔は牢獄だったという石造りの塔、シェヌーの塔とサン・ニコラの塔が建ちその景色は、僕が好きな画家ベルナール・ビュッフェの描いているそのままだった。何故だろう。僕はこの美しい景色を見ながら、いつか店を持つ時は、店名を「ラ・ロシェル」にしようと心に決めていた。

1942年(昭和17年) 鹿児島県で生まれる

父が出征していたため、母、姉、弟の4人で鹿児島県出水市で暮らす。

裏の神社で(中学3年生)

子供の頃、絵本だったか映画だったか、よくは覚えていないのだが、外国客船航路の料理長に憧れた。シェフコートの胸にピンバッジをいっぱい付け、背の高いコック帽をかぶったその姿を僕はとても格好いいと思った。「おおきくなったら外国航路のコックさんになる。」その夢を追って僕は故郷を後にしたのだ。

1958年(昭和33年)16歳 4月、料理人になるために大阪に。

最初は下働き。本格的な勉強をするために、夜は調理学校に通い始めた。

ホテル大阪ではじめてコックコートを着る

1960年(昭和35年) 18歳 ホテル新大阪に入社。働きながら夜は辻調理師専門学校に通う生活が続く。

最初は親方の世話係。なかなか厨房には立てなかった。それから食堂車の仕事をするようになって、僕の夢が少しずつかなっていったのだ。
ゴルフ場のクラブハウスに配属になり、半年くらい経った頃突然“明日からハヤシライス作れ”って言われた。
故郷を出て一年半、ようやく憧れのコックへの第一歩を踏み出せる。
出水の駅で、いつまでもいつまでも手を振っていてくれたおふくろの姿が浮かんだ。やっとここまできた。嬉しくて嬉しくて、その夜は眠れなかった。

オーストラリア滞在中にサメを捕獲!

1961年(昭和36年)19歳
オーストラリア、パースのオリエンタルホテルで働く。

学校の掲示板に出ていた求人広告に、僕は飛びついた。
外国に行きたい。ただそれだけだったけど、手を挙げたのは僕ひとりだけ。
フレンチの修行にオーストラリアを選ぶ人なんていないもの(笑)

1963年(昭和38年)21歳
帰国して憧れのムッシュ志度こと志度藤雄氏の店“四季”で働く。

オーストラリアから戻った僕の目に飛び込んだのは志度氏の店の求人広告だった。
”四季”での志度氏は朝は誰よりも早く厨房に入り、夜は僕らを帰してからも厨房に残っているというような具合だった。何から何まで志度氏の目の届かないところはなかった。その料理同様、完璧主義の人だった。

1968年(昭和43年)26歳
渋谷の洋食店レンカで料理長の助手として原卓。

ここに勤めようと決めたのには理由があった。
面接でオーナーは、料理をひととおり教えたら、君がシェフの代理だ。あとは君の工夫でやっていいと言われたからだ。
ここが僕のシェフとしての第一歩になったことでも思い出深い店なのだが、もうひとつ忘れられない事がある。
この店で、生涯の伴侶となる女性、妻光子と出会ったのだ。

大阪万博の仲間と

1970年(昭和45年)28歳
3~9月、万国博覧会で名鉄パビリオンのシェフとして働く。

20人のスタッフを抱える厨房で僕は初めてシェフとして働く事になった。
あの万博の盛況…。一日の休みも無く働き続けてそれでも追いつけない程の忙しさだった。シェフとしての責任の重さを痛感した。

日光金谷ホテル創業者の孫
金谷鮮冶氏

ラ・ロシェルの港町で

シャトー・ド・シュノンソー(フランス)

1971年(昭和46年)「運命の人」金谷鮮冶氏と出会う
「西洋膳所ジョン・カナヤ麻布」オープン

初対面の僕に金谷氏は、店の設計図を広げて、店のコンセプトを説明してくれた。
日本人の感覚にあった、懐石料理をイメージした新しいフランス料理の店を作りたい。自分と一緒に考えてくれるシェフが欲しいと。
技術的にも年齢的にも自信がなかった。そんな僕にスーシェフということで、とにかく開店の準備にとりかかって欲しいと言うのだ。
しかしいつまでたっても料理長は現れなかった。

金谷さんの勧めで、大阪の『味吉兆』で懐石料理を勉強することになったのは、僕がシェフを務めると判明した頃だった。
当時のフランス料理と言えばバターやクリームを使った重たいソース。日本人には馴染めずこのことが普及のさまたげになると考えた金谷氏は、僕に茶懐石の勉強をさせ日本人の目と舌と胃袋を満足させるフランス料理を考えさせた。
仲間はみんな本場の味を追求する為フランスに行っている。それなのに俺はどうして日本料理なんだと、不満な気持ちはあった。しかしこの経験が、僕の料理に大きな影響を与えたことは、言うまでもない。

金谷氏は僕に、料理でも陶器でも絵画でも、すべて本物を見せるためにフランスへ連れていってくれた。
僕は僕で夢中になり、三ツ星レストランの厨房にも遠慮なく飛びこんで、シェフをつかまえては片っ端から質問したものだ。
そんな僕を、金谷氏は咎めるでもなく、いつもニコニコ見ていてくれた。

店が軌道に乗り出し、順風満帆と思われたころ、金谷さんは引退し、社長の椅子を息子さんに譲った。
ある時、息子の輝雄さんは僕を呼んでそっと打ち明けた。金谷さんが6年前から肝臓を患っていてあまり良い状態ではないと…ショックだった。
自分の最後の夢をジョン・カナヤにかけていたのだ。未熟な僕を育て。その僕にすべてを託す覚悟をしていたということだ。
金谷さんの懐の深さと、事業家としての情熱に打たれていた。1977年の晩秋、僕らは金谷さんを見送った。

店内にて。若い!

28坪地下フロア 当時の店内

1980年(昭和55年) 38歳
南青山小原会館にラ・ロシェルを開店

小さな店ではあるが、東京の、それも青山に念願の店を持った。嬉しかった。
ジョン・カナヤ時代のお客様をはじめ、口コミで多くの方が来てくださったのだ。

その日の為に僕は名品を買い集めていた。リモージュ、ローゼンタール…フランスで手に入れた ビュッフェの絵などなど。夢のように描いていた情景が現実のものになった。
順調な滑り出しではあったが、資金的にも苦しくメニューは表紙だけの真っ白なメニューに、手書きで書き込んだ。挿絵までいれて…。今でも開くたびに懐かしさがよみがえる。辛抱と我慢が僕を支えていた。

クラブ・デ・トラント発足メンバー

1980年3月 クラブ・デ・トラントを結成

当時30代の料理人が30人集まって志して高く持ち、切磋琢磨する会を結成。
意見交換や勉強会だけではなくスタッフの手配など、実務についても協力しあう信頼関係で結ばれていた。同時にゴルフ仲間でもある。

300坪 最上32階フロア

10周年パーティーにて。
元東邦生命社長、太田清蔵氏より祝辞を頂く。

1989年(平成1年)  東邦生命ビル(現:渋谷クロスタワー)に移転

ジョン・カナヤ時代のお客様で東邦生命の社長から思いがけない話を頂いた。
僕に渋谷の東邦生命ビルの最上階で店をやらないかというのだ。途方もない話だった。
フロアは今の店の十倍はある。僕はこの話を固辞し続けたが、先方は根気よく誘ってくださった。が、僕は断るつもりで無理な条件を出した。
『初めの半年間は保証金も家賃もゼロ。内装は自分の好きにする。』
この夢のような条件を呑んでくれた。やるしかなかった。この時ほど人との出逢いの素晴らしさを実感したことはなかった。
お客様やスタッフ、クラブ・デ・トラントの仲間のバックアップもあって、どうにか天空の城に明かりを灯す事が出来た。

太田清蔵氏
東邦生命社長の傍ら、大丸を福岡に誘致し、1953年に開業した博多大丸の初代社長に就任する。
一方で西鉄とRKBの取締役なども務めており、福岡市の経済発展に大きく貢献した。

キッチンスタジオで

1999年、9月「完全なる料理の鉄人」で最強の鉄人に。通算70勝15敗1引き分け

この番組で得たかけがいのない大切な友人

1994年(平成6年)「料理の鉄人」に2代目フレンチの鉄人として登場

それは突然だった。クラブ・デ・トラントの石鍋裕氏が初代フレンチの鉄人として登場し、僕は“大変だなぁ”とまったく他人事のようにながめていた。
3ヶ月ほど経った頃、フジテレビから出演依頼があった。
ラ・ロシェルのシェフ工藤が豆腐対決で敗れたリベンジ戦だと思っていたのだが、何と2代目フレンチの鉄人になって欲しいという。もちろん即座に断った。しかし相手も怯まない。
とうとう3ヶ月だけという約束で僕は説き伏せられてしまった。僕は6年間の長さにわたり、この番組に出演することになってしまった。

鉄人としてテレビに映る以上、僕は僕なりに格好良くありたかった。そのためには勝つ事が必須。
料理人として改めて勉強し直す機会を与えられた事に、今とても感謝している。
また番組を通して広がった人との繋がりも、僕にとってかけがえのないものになっている。

披露宴後の記念撮影

1995年(平成7年)レストランブライダルを始める

レストラン・ウェディングという新しい婚礼の形が若いカップルの人気を集めるようになった。もっと個性的でアットホームな“記念日作り”が志向されるようになったのだ。
そんな彼らにオリジナリティーの高いブライダルを提案することにした。

南青山ル・アンジェ教会

南青山店オープニングの日

1999年(平成11年)南青山店オープン

レストラン・ウェディング」をコンセプトに『南青山ル・アンジェ教会』と隣接して南青山店を オープンすることになった。
ブライダルエキスパートの高見重光氏がイメージするブライダルと僕の料理のコラボレーションでもある。

2000年(平成12年)先進7カ国首脳会談「G7」のランチを担当

国の仕事を一般レストランが受けるというのは前例がないこと。
当日は店を閉め、全員で対応する事になった。残念ながら写真は残っていないのだが、ものすごく感動だった。

福岡店 店内全景

赤坂ル・アンジェ教会

2002年(平成14年)福岡店オープン

鹿児島生まれの僕が、福岡で仕事ができる…
僕にとって福岡店は里帰りの第一歩のように思える。
こんな形で故郷に帰る幸せに恵まれるなんて、まったく想像も出来なかった事だ。

山王店 店内

2010年(平成22年)山王店オープン

料理人として半世紀。節目となるこの時期に新店舗をオープンする事が出来るのは様々な縁やお客様、スタッフの支えがあっての事。
新たなる挑戦が始まった。

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